“アウェー”で奮闘する日系企業のために
コンサルティングで中国・アジア進出を支援し、成功に導く

マイツグループ代表取締役統括社長

池田博義さん

池田博義さん

1990年代初頭、バブルの絶頂に沸いていた日本で、どれだけの人がアジアの未来に目を向けていたでしょうか。あの頃、まだ貧しかった中国が20年後には世界2位の経済大国に成長し、日本企業にとっても最重要の戦略拠点になる――そんなシナリオを、誰が信じたでしょう。「私だって別に大それた夢や自信があったわけではない。ただ、ここで働くべきだという直感にしたがっただけです」。公認会計士にして“中国・アジア進出の達人”であるマイツグループの池田博義CEOは、ドメスティックな会計業界の枠をいち早く飛び出し、中国・アジアで奮闘する日系企業の経営支援という新しいビジネスを切り開きました。そのメッセージには、先駆者ならではの誇りと情熱があふれています。

Profile
池田博義さん
マイツグループ代表取締役統括社長

いけだ・ひろよし/1948年生まれ。1971年同志社大学経済学部卒業。1975年公認会計士資格取得と同時に池田公認会計士事務所、税理士池田博義事務所を開設。1987年株式会社マイツを設立、代表取締役に就任。1994年株式会社マイツ上海代表処開設、首席代表に就任。1999年上海邁伊茲咨詢有限公司設立、董事長就任。その後中国沿海部にマイツグループの事業所を展開。マイツグループは、中国・アジア15ヵ国に27拠点を展開。現地に進出する日系企業約3300社に対し、会計・税務をはじめ人事労務、経営などに関する幅広いサポートを提供。

継げなかった家業をサポートするために会計士の道へ

 マイツグループは中国・アジア15ヵ国に27拠点を展開。現地に進出する日系企業約3300社に対し、会計・税務をはじめ人事労務、経営などに関する幅広いサポートを提供されています。池田代表は現在も精力的に国内外を行き来されているそうですね。

月の前半は中国、後半は日本にいることが多いですね。初めて中国の地を踏んだのが1993年の秋。それから15年ほどは向こうへずっと行ったきりで、日本にほとんど戻らなかったし、戻りたいとも思いませんでした。だからいまでは、中国に行くというより「帰る」という感覚に近い。上海(中国マイツの本拠地)に帰ると、不思議と落ち着くのです。そんなわけで、どちらが本当の故郷かわかりませんが、もともと生まれ育ったのは京都です。実家は京都友禅の染物屋。大学を出た後、75年に公認会計士として地元で開業しました。それが、現在のマイツの原点です。

 なぜ会計士を目指したのですか。

マイツグループ代表取締役統括社長 池田 博義さん Photo

兄弟が多くて、私は上から4番目。兄貴たちは家業を継ぐことができたのですが、私はあぶれてしまいました。それでも何か別の形で実家の手伝いがしたいと思い、商売を側面支援できる職業を選んだのです。最初に志したのは税理士でした。大学は経済学部に進み、2回生のときに簿記検定1級に合格。このあたりまでは順調だったのです。ところが当時は大学紛争の真っただ中。3回生の4月から全学封鎖になってしまい、突然やることがなくなった。それから1年間はずっと遊んでいたようなものですよ。やがて学園封鎖は解けましたが、4回生になれば5月頃には就職も決まるでしょう。せっかく4年制の大学に入りながら、実質2年しか勉強していないことになる。これでいいのかと疑問に思ったのです。

公認会計士の第2次試験の受験要項を偶然目にしたのはその頃でした。受験資格には「大学の専門課程卒業程度」と書いてある。会計士なら家業の役に立てるし、これに合格することで4年制大学を出た証にしようと決めて、4回生になってから勉強を始めたのです。実質的な準備期間はたったの15ヵ月。しかも当時の合格率は4%ほどしかなかった。それでも私は「絶対に一発で受かる」と、周囲に豪語していましたね(笑)。幸い、その通りになり、大学を卒業した年に一発で第2次試験に合格できました。ところがそこから私は、大半の会計士さんとは違うコースを歩むことになるのです。

違うコースとは?

昔は会計士試験に合格すれば誰もが監査法人に就職しましたが、恥ずかしい話、その頃の私は監査法人というものの存在さえ知らなかったのです。とはいえ、実務経験を積まないと資格が取れないので、地元の公認会計士事務所の門を叩き、パートで監査業務の補助をやらせてもらいました。そもそも私の場合は、実家をサポートしたいというのが最大の動機でしたから、組織に所属するつもりはなかったし、また監査だけでなく、経営全般にわたってアドバイスできるような仕事を最初から思い描いていたのです。

だから監査法人に就職するなんて、まったく頭にありませんでした。会計や税務というのは、経営の結果が数字となって表れるものですが、それを見てここが悪いとか、あそこが違うと指摘するだけでなく、じゃあどうすれば会社がより良くなるのかを顧客と一緒に考えたい。医者は病気をただ診断するだけでなく、治すところまで面倒をみますよね。会計人として、そういう存在でありたいとの思いは変わりません。

その志を実現するために株式会社マイツを設立し、会計事務所を基盤とした経営コンサルティング事業に乗り出したのが1987年。ちょうどバブルが始まった頃ですね。

完全独立のときから会計人としてのテーマを「企業相続」と定め、事業承継や相続税対策などのコンサル業務を事業の柱に据えていましたが、それが景気の波にも乗って急拡大。マイツは設立して数年で、京都と大阪の事務所に総勢70名以上のスタッフを抱えるまでに成長しました。ところが世の中がバブルに熱狂すればするほど、私自身の中には、何か満たされすぎて逆に満たされないような、生きるってこんなことでいいのかという疑問が膨らんでいったのです。家を買っても、車を買っても至れり尽くせり。あまりにも完成され過ぎて、これが本当に人間らしい生活なのかわからなくなってしまった。日本を海外の視点から見てみたくなって、毎年、会計士仲間と海外視察へ赴くようになったのもこの頃です。香港、バンク―バー、ロサンゼルスと回を重ね、93年に訪れたのが上海でした。

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