世界中のチームワークを良くしたい――
“経営の神様”の言葉を胸に日本一から世界一へ

サイボウズ株式会社代表取締役社長

青野慶久さん

青野慶久さん

「チームあるところサイボウズあり」――国内グループウェア市場でシェアNo.1を誇るソフトウェア開発・販売のサイボウズ株式会社は、グローバルに展開する企業や公的機関などの大規模チームから、中堅・中小企業、ボランティア、家族などの小規模チームまで、あらゆるチームのチームワーク向上に貢献するコラボレーションツールを開発・提供しています。16年前に愛媛県松山市で3人の若者によって設立。代表取締役社長の青野慶久さんはその創業メンバーの一人として、「チーム」に特化したコラボレーションサービスという新しいビジネスを切り開きました。ベンチャーでも他に例を見ない同社の急成長は、インターネットやウェブ技術の爆発的な普及という時代の追い風だけによるものではありません。成功の根幹には、トップの事業にかける“命がけの志”がありました

Profile
青野慶久さん
サイボウズ株式会社代表取締役社長

あおの・よしひさ/1971年、愛媛県生まれ。大阪大学工学部情報システム工学科卒業後、松下電工株式会社入社、BA・セキュリティシステム事業部営業企画部に在籍。1997年サイボウズ株式会社を愛媛県松山市に設立、取締役副社長に就任。マーケティング担当としてWebグループウエア市場を切り開く。その後、「サイボウズ デヂエ(旧DBメーカー)」「サイボウズ ガルーン」など、新商品のプロダクトマネージャーとしてビジネスを立ち上げ、事業企画室担当、海外事業担当を務める。2005年4月に代表取締役社長に就任。著書に『ちょいデキ!』(文藝春秋)がある。

前職での失敗経験に学び、起業してわずか4ヵ月で黒字化

 まず起業の経緯についてお聞かせください。青野社長は大学卒業後、松下電工に就職されましたが、その頃からいずれ独立を、と考えていらっしゃったのですか。

いえいえ、起業する気はありませんでした。コンピュータはもともと大好きで、大学でもずっと勉強していたのですが、自分にはプログラムの才能がないと痛感してやめたんですよ。まわりの先輩たちを見たら、これはかなわないなと。そこで軌道修正というか、中学時代からソフトウェアづくり一本だった自分をリセットするつもりで、松下に入ったんです。入って何をしていたかというと、スコアボードを売っていました。野球場の電光掲示板。あれを売りに、西宮球場なんかへ通っていた。「フルカラーにしませんか。2億円ですけど、どうですか」って。それはそれでおもしろかったですよ。

 コンピュータやソフトウェアとは縁のない部署だったんですね。

そうなんです。ただ、ちょうどその頃、松下でも業務の効率化を目指して、社内にコンピュータを入れようとしていました。僕の事業部にはたまたま詳しい人がいなくて、一番暇そうだからと、新人の僕に導入担当のお鉢が回ってきたんです。課長以上の全員にパソコンを配り、年配の社員にはマウスの使い方から教えました。みんな、マウスを持つのも初めて。「画面の端まで行ったらどうするんや?」とか、そういう状態でしたからね(笑)

実はグループウェアというものに僕が初めて関わったのもこの頃で、当時話題のソフトを導入することになったんです。これはすごい、いろいろできそうだということで試したんですが、結果的には大失敗。とにかくコストパフォーマンスが悪すぎました。手間はかかるわ、動作は重いわで、誰も使わないんですから。ソフトウェアに限らず、ツールというものはいくら機能がたくさんあっても、使いにくければ意味がないということを、思い知らされました。僕にとってはある意味、貴重な挫折体験でしたね。

いったんはあきらめたコンピュータとの“再会”。やはり心を動かされるものがありましたか。

職場のシステム開発をやりながら、並行して本業のスコアボートも売っていたんですけどね、正直、気持ちは完全にコンピュータのほうへ向いていました。というのも当時、ウェブの技術が飛躍的に発展し始めていて、すっかりハマってしまったんです。これはすごいぞと。会社にいても、ほとんど自分の席にいなかった。サーバールームにこもりきりで、コンピュータの本を読んでばかりいましたから。

そうこうするうちに新しく社内ベンチャー制度なるものができたので、同僚と立候補して、システムインテグレーションを請け負う子会社をつくったのですが、やっぱり違う。本当にやりたかったのは、新しいウェブ技術を使ってグループウェアを創ることだったんです。そうすればシンプルで、誰にでも使いやすいものができるし、きっと売れるに違いない――根拠のない自信がむくむくとわいてきて、どうにも抑えきれなくなったのが、松下を辞めて、サイボウズを立ち上げるに至った一番の理由ですね。独立とか起業とか、そのこと自体にはまったく興味はありませんでした。今思えば、世の中を知らないがゆえの過信。完全に勢いだけでしたね。

いくら「これを創りたい」という志が明確でも、そこから実際にビジネスを展開していく過程においては、技術開発とはまた違う、別の苦労があったと思うのですが。

サイボウズ株式会社代表取締役社長 青野慶久さん Photo

それが、当初からあまり苦労しなかったんですよ。サイボウズを設立したのが1997年の8月。10月に販売を開始して、12月にはもう単月で黒字が出ていたんです。自分たちの予測以上の滑り出しでしたね。

そもそも僕が起業を考えるようになったのは、先に話したとおり、当時のグループウェアで失敗した新人時代の経験がきっかけです。あの頃、ウェブ技術を使ったグループウェアがあれば、うまく業務を効率化できたに違いない――だから僕にとっては、いわば“あの頃の自分自身”が商売のターゲットでした。“彼”はグループウェアに何を求め、いくらなら買うか。どんなアプリケーションなら喜ぶのか。過去の自分をマーケティングして、商品を開発・販売してみたら、僕と同じように感じているビジネスパーソンが驚くほどたくさんいたわけです。それがまず大きかったですね。

また当時、インターネットが急速に普及し始めたことも追い風になりました。ちょうどNTTがつなぎ放題の格安プランを出したんです。これからは企業もネットに常時接続するだろうということで、当初から販売をネット経由に特化しました。ビジネスユースのソフトウェア販売というと、それまではシステムインテグレーターが顧客まで足を運び、デモを見せて売り込むのが定番でしたが、僕たちはプログラムを書き、ホームページ上に置いただけ。それ以上の営業コストはかかっていません。しかもネット販売なら、家賃の高い大都市に拠点を構える必要もない。サイボウズの初代オフィスは、東京でも大阪でもなく、僕の故郷にも近い愛媛県松山市の家賃7万円のマンション。その一室は、創業メンバーのうちの一人の住まいでした。

その後は事業拡大に伴い、松山から大阪、東京へと本社を移転し、海外にも拠点を広げました。2002年には設立から約4年7ヵ月で東証二部に上場(現在は一部)。急成長のポイントはどこにあったとお考えですか。

起業して、ビジネスが軌道に乗ってきたときに、僕たちが一番力を入れたのは広告・宣伝でした。売上は着実に伸びていたのですが、その売上の半分は突っ込みましたね。ネット系の広告から新聞、雑誌など、いろいろな媒体を使いました。創業3年目でしたか、まだ大阪にいて社員十数人でやっていた頃、日本経済新聞に全面広告を出したんですよ。当時、日経に全面広告を出した企業の中でうちが最も規模が小さくて、記録だと言われました。

なぜ、そんなことをしたのかというと、ソフトウェアってすぐにコピーされるでしょう。弊社の製品も、同じ画面や機能を持つ模造品がいっぱい出回っています。売れ始めるにつれて、そういうケースが増えてきたので、とにかく早く自社のブランドを構築しないと生き残れないという危機感が強かったんです。こっちはせいぜい十数人で新しいものを開発しているのに、100人規模の会社に真似されたりしたら、たまったものじゃありませんからね。広告・宣伝費に売上の半分を充てても、自分たちの会社を大きく見せて、ブランドと安心感を確立することを優先したわけです。

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