製造業の人材派遣業界の未来のために
人材育成と業界内の協力体制づくりに力を注ぐ

日総工産株式会社

清水竜一さん

清水竜一さん

日本の製造業における請負事業を中心に、人材派遣・有料職業紹介事業を展開し、日本のものづくりと働く人を支えてきた日総工産株式会社。1971年に創業、日本の高度経済成長とともに急成長し、オイルショックやバブル崩壊、リーマンショックなど、製造業にとって厳しい時代も、着実に技術力をつける人材育成を貫き、「メイド・イン・ジャパンを支える最高のプロ集団」を目指してきました。現在、2代目社長として同社をけん引する清水竜一さんは、業界団体である一般社団法人日本生産技能労務協会(JSLA)会長や一般社団法人人材サービス産業協議会(JHR)理事などの任務を通じ、製造系人材サービス業界の健全化にも力を注いでいます。これまでの経営の変遷や現在の取り組み、これからの展望などについてお話を伺いました。

Profile
清水竜一さん
日総工産株式会社 代表取締役社長

しみず・りゅういち/1988年日総工産株式会社入社。2004年より現職。2011年一般社団法人日本生産技能労務協会(JSLA)会長に就任し、製造系人材サービス業界の健全化を推進。2012年10月、人材関係5団体が集う一般社団法人人材サービス産業協議会(JHR)の発足に携わる。発足時より理事に就任し、各種プロジェクトの運営や提言に関わり、時代に則した人材サービス業界の実現に向けて尽力をしている。

関西のビジネスに興味があった学生時代

日総工産株式会社は、お父様でもある現在代表取締役会長の清水唯雄さんが、40年以上前に創業されたのですね。

はい。製造業では昔から、特殊技能で請け負って仕事をする人たちが大勢いました。会長も、もともとは造船部門の溶接技師で、そこからこの事業をスタートさせたのです。そして、社名の由来でもある、「日本の総ての工場の生産業務を受託していく」をビジョンとして掲げ、溶接技師を始め、さまざまな製造現場に対応する人材を提案して営業活動を行い、事業を拡大してきました。

清水社長は、大学卒業後はどちらに就職されたのですか。

清水竜一さん インタビュー photo

最初は、関西で働いていました。日総工産をいずれ継ぐ可能性も考えて大学はマネジメント工学を専攻しましたが、関西のビジネスを経験してみたくて、関西で就職したんです。

関西のビジネスに興味を持ったのは、学生時代に関西出身の友人が多く、価値観やビジネスに対する考え方の違いが非常に面白いと思ったからです。ちょうど、関西のガスの設備工事などを行う会社で社内にオフコンを導入するプロジェクトが発足するので、その導入を手伝わないかと声がかかり、将来的にはゼネコンを回りながら営業をしてみたいと思って入社しました。理系で図面も引けたため、結果的にはオフコン導入プロジェクトが終了した後も、営業ではなく設備工事の現場監督になってしまいましたが。でも、そこでの経験が、非常に勉強になりました。現場には、気難しい職人さんたちがたくさんいて、そういう人たちと直接やりとりしながら現場監督を務めた経験が、日総工産に入社してからも非常に役立ちました。

本当は、もう少し長く関西にいるつもりだったのですが、3年少し経った頃、母が急死して、父のもとに帰るべきかと思い、予定を繰り上げて戻ってきたのです。

当時の製造業の請負事業を取り巻く環境はどのような状況だったのでしょうか。

私が日総工産に入社した1988年ごろは、地方からの「出稼ぎ」と言われる人たちが大勢いた時代です。漁業・農業従事者や地方で仕事のない人が、季節労働者として東京に出てきていました。でも、出稼ぎの人たちは、本業が地元にあるので、その季節になると帰ってしまう。例えば、北海道のコンブ漁の人たちはコンブ漁のシーズンになると北海道に帰ってしまうので、その時期をどうするか。であれば、ちょうどシーズンが逆になる沖縄のサトウキビ畑で働く人を集めればいいんじゃないかと声をかけていく。そうやって、年間を通じ安定して人を集めることが大変な時代でした。

でもその後、「フリーター」という言葉が登場したように、大量に若い人たちが市場に出てくるようになりました。業界もぐっと若返り、例えば細かい部品を扱うことに向いている若い人が多くなることで、請負先も半導体など電子部品の現場に拡大することができるようになりました。

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